一橋大学 世界史 1994年 第1問
【1】
次の史料は、神聖ローマ帝国内の都市ゴスラーの1219年の都市法第2条に記されているものである。この史料を読んで、下記の2問に答えよ。
もしあるよそ者がこの都市に居住のためにやって来て、そこで一年と一日滞在する間、その者の隷属身分について訴えられ、立証され、自供させられることがなければ、他の市民たちと共通の自由を享受すべきである。そして誰であれその者を自分の隷属民とみなしてはならない。
問1 ここで宣言されているヨーロッパ中世都市の「自由」の内容と性格について具体的に記せ(200字)。
問2 ヨーロッパ中世都市の市民は、この「自由」を維持するためにどのような方策をとったか、具体例を挙げて説明せよ(200字)。
ちょっと捜し物をしていて、また奇妙な入試解説サイトを見つけてしまった。
そこでの「コメント」が以下。
コメント
【1】
問1 論述としてはありきたりのテーマです。「ヨーロッパ中世都市の「自由」の内容と性格について具体的に」というもの。中世都市がどのようにできたかの成立史を問うていないので書かないこと。「内容」はどのような権利をもっていたか、と言い換えてもいいですし、「性格」は古代都市と比較するか、近代都市(近代市民)と比較するかして、違いなり限界にあたるものを導きだせば描けます。論述としてはよく出題されるものではあっても、この「性格(限界/意義)」にあたるものは、あまり書いてありません。せいぜい『詳説世界史』の「親方と職人・徒弟のあいだには厳重な身分関係が保たれていた……自由競争を禁じ、さまざまの規制を設けて生産の統制や技術の保持をはかり、市場を独占した。こうした統制はのちに自由な生産の発達をさまたげるものとなった」くらいでしょうか。
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この答案だと、勿論0点である、全く出題意図に触れられていないからだ。
この上記の問題文をみて次の2点が観察されなくてはならない。
(1)1行問題である、何を書かねばならないかについての制約条件になるような指定語句や指示がない、抽象度の高い問題文(「 ここで宣言されているヨーロッパ中世都市の「自由」の内容と性格について具体的に記せ(200字) 」)
(2)リード文(「 もしあるよそ者が …みなしてはならない」)で、通常の受験生が「中世都市の自由」というテーマで書かされる時の「都市の空気は自由にする」が、既にリード文で書かれている。だから、この内容を字句を変じて書いたとしても、それは問題文の丸写しなので、1点も貰えない。
以上の2点から(1)この問題は再出題なので、「ノーヒント」である、(2)リード文のような解答は求めていないので、これを書いてはいけないという禁則処理として、リード文が書かれている、ということが理解できなくてはいけない。そして、ノーヒントということは、極めて普通の問題であり捻りがないということだから、そのまま基本論点を解答すればよい。これは、その場で考える問題ではなく、事前に学習している標準的な構造モデルを記述させるという趣旨の問題であると分かる(このような思考が、問題がこのような基本的な問題である場合の、「問題を見て、試験会場で考えている思考の具体的な内容」である。歴史について考えているわけではない)。
正解のアウトラインは極めて簡単なのである。
考え方として、まず、中世自由都市について、教科書でどのように記述しているかを読むと良い。かならず、典型的な中世自由都市が、ドイツとイタリアで出現したと書かれていることが分かる筈だ。詰まり、中央集権化が進まない、封建諸侯の勢力が強い地域である。これらの地域では、帝権が勅許状などにより、都市に「自由」を与えることで、封建諸侯による都市支配を阻止しようとしているのである。ここまでは(1)のアウトラインだ。
都市は帝権と連携して保護を得ることができず、都市同盟をつくって防衛を行ったのであり、それがハンザ同盟・ロンバルディア同盟などである。こうした都市同盟が軍事力を備えた封建勢力であることが観てとれるだろう。これが(2)のアウトラインである。具体的にというのは、こうした都市同盟を揚げること、それが主要河川沿いなどの遠隔地通商のルートを保護するように展開されていたこと(フランドル地方はマルセイユを経由して東方貿易と北海貿易を連結しているルートの1つ)を指摘すれば足りるだろう。
一橋の世界史は、本質的には極めて簡単である。帝大ではなく商科大学なので、それほど難しいことは訊いてこない。しかし、国立大学であるのだから、表面的で上滑りなことは訊いては来ないということさえ分かっていれば、どうして間違えることができようか?
そもそも以下の問題の再出題で、またも間違えるような学生はお呼びではないことは自明である。
一橋世界史1983
過去問 -一橋大学
【1】西ヨーロッパにおける中世都市の市民は「自由」を享受していたといわれている。例えば、皇帝フリードリヒ(フレデリック)2世は、都市リューベックに与えた特許状(1226年)のなかで、「都市リューベックは常に自由であるべきである」と記しており、また都市ウィーンに与えた特許状(1237年)においては、「都市の空気は自由にする」という命題を明示している。このように都市についてしばしば示される「自由」が、どのような意味を有していたか、知るところを記せ。(300字以内)
それに対して、当該サイトの著者は以下のような頓珍漢な答えを書いている。
(わたしの解答例)
【1】都市市民は立法・司法・行政の権利や貨幣鋳造権を行使した。逃亡農奴を解放する権利、他都市の商人に対する市内商人と職人を保護する権利をもっていた。また外交権ももち他の都市と同盟をむすび防衛した。しかし都市という団体の一員として市民は安全は得られたが、親方の権力が大きい身分制があり、近代の自由のように結社・集会の自由、更に欠亡からの自由などは認められなかった。経済的にはギルド独占・ギルド強制により競争からの自由・生業の安泰はあるが、営業の自由の原則は不在であった。ギルドは同一の教会に属し同じ守護者をもち、信仰や言論の自由はない。このように中世都市の「自由」は普遍性と人権思想を欠いている。
この答案例を書いた著者は、この自分の答案をみて、要するに、都市は封建諸侯と同じで、都市民を人格的に支配している(営業の自由がない)ことに気が付き、都市は本質的には封建諸侯の一形態であることを看破せねばならない。事実、イタリアではこうした都市の大商人が都市の行政を支配し、都市貴族として、国家主体になってゆく事例がいくつも観察できるではないか。
この答案例を書いた著者は教科書をよく見ている。しかし、読むということは表面の文字面を追いかけることではないのである。なぜ、中世都市については、ドイツとイタリアしか書かれていないのか、それらの動きがどのようなものであるのか、を観察せねばならない。ドイツでは皇帝権があるので連携して都市同盟をつくる。イタリアは教会という封建勢力が強く、国王権が存在しないので、都市国家になる、という歴史的背景の違いが、その後の対応の違いを生んでいる状況がハッキリと書かれている。それを読み取れるかどうかが、まさに「文献を読む力」なのであって、それがなければ、大学に入っても勉強にはならないよ、と一橋が言っている、というだけのことだ。それすら理解できない者が解説の筆を執るのは、失礼ながら危険なのである。まず、解説者は、その意味では自分の学歴を明かにすべきだ。私は一橋の問題は、素直で基礎的な問題であると感じている。
ドイツ、イタリアでは遠隔地貿易が栄えたが、域内生産力が十分ではなかったのであろう。その理由は、ドイツの場合、東方植民から日が浅いこと、イタリアの場合、遠隔地貿易に従事する都市国家は実物生産について抑止的であるからであると推測する。いずれにしても、皇帝権が大商人と連携するための政治的条件が整っておらず、皇帝権や王権が商業資本と提携して、封建諸侯やその一形態である教会を支配下に納めることができない状況であったということこそが、世界史の「定番」的な知識である。問題が「都市住民の自由」ではなく、「都市の自由」と言っていることをその字義の通りに読めば何の難しいこともない。
更に、封建勢力の中でも最大の勢力はローマ教会であり、英仏の中央集権化が進む状況下では、教会にとっての草刈り場は、イタリアとドイツなのである。神聖ローマ皇帝は、まず、イタリア諸侯と提携して教会を叩くなど、敵の敵は味方というような戦略を採らず、自分の力が古代的脆弱性を持ったままであることに気が付かず、いきなり教会と闘争を始めてしまい、結局、敗れてしまうことがまずかった。封建諸侯は帝権と連携するのではなくプロテスタントを名目にしてローマからの独立を得る方向へ動いてしまい、国内の政治的な分裂は深まったと評価できるのではなかろうか。
失礼を重ねるが、この著者は、大学が大学入試並の問題を出すと奇問と誹り、あたかも中間試験のような問題だと誤解すると、「ありきたり」と言うのであるが、ありきたりなのは問題ではなく評者なのではあるまいか。